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片山さつきヒストリー

片山さつきヒストリー

幼少期

わずか11歳で周囲が将来の代議士を予言

父が数学者で大学教授という家庭環境もあり、幼い頃から自然と勉強に励んでいたと思います。

勉強も好きでしたが、遊びや音楽も好きで、友達と近くの神社で木登りをしたり、お互いの家を行き来したりと、遊びには事欠きませんでした。ピアノ、習字、油絵など習い事もしましたし、浦和の児童合唱団に入ったこともあります。どこにでもいる明るく活発な女の子でした。

変化があったのは、小学校5年の終わりに『日本進学教室』という、当時最も権威ある進学塾に通うようになってからです。私は国公立の中学を受験するクラスにいました。その講師が、成績表の裏に次のことを書いて渡してくれたのです。

-君を見ていると、何か恐ろしい気がします。こんなに勉強して将来何になるつもりですか?きれいなお嫁さんですか?それとも東大卒後女性局長ですか?女性代議士ですか?ぐっとがんばって女性首相という手もあります。僕のように法学部だったら、もっとも多いのは女性弁護士かな。でも、どれもゾッとしません。初めのひとつを除いてね-

これを見た母が「この先生、なんてことを言うんだろう」と思って取っておいたのですが、今思えば、わずか11歳で大人からそんなふうに見られていたことにドキッとします。当の本人は素直なもので、「だったら、私はそのレースを走るしかないのかな」と、友達にも話していました(笑)

学生時代

学生時代の天皇陛下とテニスを通じて交流

中学・高校は東京教育大学附属(現・筑波大学附属)に通いました。ここで学生時代の天皇陛下との出会いがありました。私の母校と学習院中等科・高等科は、明治29年より毎年、スポーツ定期対抗戦を行っていて、中学からテニス部に入っていた私は、学生時代の天皇陛下とテニスの試合でお目にかかることができたのです。

直接対戦したことはありませんが、多いときは年2回、6年間お顔を合わせる中で、お声をかけていただくこともありました。もちろん、「いつか必ずこの方が天皇陛下になる」と分かっていましたから、つねに緊張感はありました。

私が大臣の頃、陛下が出席される行事に出ると必ずその頃のことをおっしゃって、皇后陛下にも「片山大臣は附属でね」とご紹介くださいました。大臣在任中に女性で唯一、しかも憲政史上初めて天皇陛下のご即位に伴う『剣璽等継承(けんじとうしょうけい)の儀』に参列させていただいたことにも、少なからずご縁を感じています。

大学3年生で外務省採用試験に合格

当時の東京教育大学附属高校は毎年多くの東大合格者を出しており、私も自然と東大を目指すようになりました。

実は、3年生のとき外務省の採用試験に合格。私には「世界を飛び回る職業に就きたい」という希望があったので、大学を中退して外務省に入る道もありました。

ただ、最終面接官で当時の東大法学部長でもあった芦部信喜先生に、「東大法学部にもいろんな女子生徒がいるけれど、大蔵省に入れるのはあなたぐらいだよ。ちゃんと卒業して大蔵省に行ったほうがいい」と勧められ、周囲からも「あなたなら大蔵省トップクラスの男とも肩を並べていける」と言われて、急きょ、方向転換することに。

最終的に大蔵省を選んだのは、国家の予算編成に関わっていれば、国全体を「総合的」「ふかん的」に見ることができると考えたからです。「将来の日本を支えていく」という大きな志を抱くことになりました。

そうはいっても、大学時代は遊ぶことも忙しかった(笑)。体育会のテニス部で京大戦に出たり、サッカー部のマネジャーをしたり、「アイドルプロデュース研究会の人に誘われて『an・an』『non‐no』といったファッション誌に読者モデルで出て「可愛いあの娘No.1」になったこともあります。

文科1類は一学年630人中、女子は15人だけで目立っていたのか、食事やデートのお誘いもたくさんありました。また、いろいろなところから声がかかって活動の輪もどんどん広がっていきました。同級生にはソニー株式会社の現社長・吉田憲一郎さんや内閣府の事務次官がいらして、ほかの多くの同級生もさまざまな各分野で活躍しています。彼ら彼女らは一生の財産です。

大蔵省(財務省)時代

読売新聞

大蔵省で女性初の主計局主計官に

晴れて大蔵省に入省し、最初の研修で「女性でもがんばれば税務署長になれますか?主計局の主査、主計官になれますか?」と質問したことを覚えています。

その言葉通り、日本の財政金融経済を見る立場の仕事を全てやれたのは、極端に女性が少ない職場で、上層部が私を実験的にいろいろな部署に置いてみようとしたのだと思います。結果的に、女性初のポストを歴任させていただきました。

しかし、それを面白く思わない人もいます。一般的な企業同様、みんなが知っている情報を私だけ教えてもらえないなんてこともありました。それでも失敗は許されません。どんな逆風を受けても、私を押し上げてくださった方々に迷惑をかけてはいけないという意識がずっとありました。

ところが、意外にもノンキャリアの人たちが私の味方になってくれ、いろいろ教えてくれたのです。女性で初めて主計局主計官になったときは、日経・読売・産経等全国紙にも記事を掲載していただきました。40代前半、政治家に転身する少し前のことです。

不動産・資産の流動化推進

官僚時代に2度結婚 不妊治療の経験も

プライベートでは、大蔵省時代、27歳のとき、1度目の結婚をしました。相手はみなさんもよくご存じの舛添要一さんです。仕事との両立が条件の見合い結婚でしたが、実際は私の仕事をまったく理解してもらえず、価値観が合わないまますぐ離婚。

今の主人とは31歳で結婚。主人はいくつかの企業の社長を経験し、今は投資家的な仕事をしていて、比較的時間が自由になるので、私が「今、世の中でこういうことが問題でね」と言うと、何でも的を得た助言をしてくれますし、人脈も広いので人も紹介してくれる。共通の話題も多く、本当に頼れるパートナーです。

一つだけ心残りなのは、子どもを持てなかったことです。実は38歳から43歳まで、不妊治療もしました。20回ぐらい人工授精を試みましたが、超早期流産を繰り返し、これ以上は難しいだろうと三日三晩泣いて諦めました。

どうしても子どもが欲しかった私はそこで一度死んだ位の挫折感で「これからの人生は日本中の子どもの将来のため、即ち国家国民のために生き、尽くそう」と思い定め直しました。当然、菅総理が掲げる不妊治療の保険適用支援拡大を推進しています。

政界に進出

政界からの誘い 最初は竹下元総理

政界に初めて本格的に誘われたのは39歳。女性初の横浜税関総務部長を務めたあとのことです。当時まだ衆議院議員2期生だった菅義偉現総理と甘利明税調会長、亡くなられた亀井善之さんのお三方が「横浜のホテルに来てほしい」と。そのときは夫も一緒に呼ばれました。そこで「神奈川県知事に立候補しませんか。女性で一番若い知事をつくりたい」と言われたのです。

そのときは、女性初の主計官になる目標があったので、お断りしました。その前にも選挙に出ないか?というお誘いは何度もありました。びっくりしたのは、竹下登元総理からのお誘いです。実は、広島国税局海田税務署長を終えてすぐ挙げた、私たちの結婚式の大仲人が福田赳夫元総理、乾杯の音頭が竹下登元総理でした。その後、「税務署長をやったのなら弁も立つだろうし、どうだろう?」と義父(マルマンオーナーの故片山豊さん)におっしゃったということです(そのときは義父が「まだ早い」と断ってくれました)。

そして、2005年、当時総理大臣だった小泉純一郎さんから要請され、ついに衆院選出馬を決意しました。総理大臣は行政(役人の世界)の一番上の上司であり、財務省も後押ししてくれたからです。もちろん、今回は主人も賛成してくれました。

スーパーシティ実現で女性の暮らしに安心を

「小泉チルドレン」の筆頭格として1期目の任期を終えたものの、2期目の選挙で敗北。その11カ月後、2010年の参院選・比例代表で再出馬し、自民党トップ当選を果たしました。

第4次安倍改造内閣では唯一の女性閣僚として地方創生、規制改革、女性活躍推進など8分野の政策を担当しました。地方創生・規制改革の目玉は「スーパーシティ構想」で、今なお継続的に取り組む課題の一つです。

スーパーシティ構想とは、簡単に言えば、最先端テクノロジーを活用し、新型コロナ、超高齢化人口減少、人手不足など、日本社会が抱える課題を解消して、誰もが安心して暮らせる街をつくることです。

たとえば、一人暮らしの女性は老後が不安といわれます。災害などに関する必要な情報を受け取れなかったり、車の運転ができなくなり、外出が困難になったりしたらどうしようと思われるわけです。スーパーシティでは、自宅のテレビに大切な情報が随時流れ、自宅にいながら遠隔でお医者さんの診察が受けられ薬も配達されるようになります。また、自動運転のコミュニティバスが家の前で拾ってくれ、自由に買い物やカラオケに行くことができます。

そのほか人生100年時代に向けて、今後も全国の自治体と協力し合い、みなさんの安心安全な暮らしを全力で守っていくつもりですので、ぜひ頼りにしていただきたいと思います。

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